特権ではなくハイリスク投資としての名門学校

イギリスに移って三ヶ月が過ぎようとしている。移民としての生活に感じるところについてはまた後日書くこととして、今日は移住後に見かけた日本のニュースについてコメントしたい。国立大学附属学校の入試をやめて抽選による選抜に変えることで平等性を担保すべきという議論を見かけた。国立附属学校のOBとしてこれは大きな愚行であると考える。加えて、教育政策を立案する人々が何か勘違いしているのではないかと感じる点があるので持論を書きたい。勘違いという表現は、国立大学附属学校への進学は100%の成功を保証する切符であるという誤認を彼らが持っているのではないか、という著者の疑念から来ている。今回、移民後の依然として慌ただしい中で拙論を書いてみてエビデンスとなるデータを揃える時間がなかったため、今後機会のあるときに本稿をupdateしようと思う。

Disclosure: 著者は国立大学附属学校の一つである筑波大学附属駒場高校の出身である。

他の国立大学附属学校OBは日本の国力を維持するために、国立大学附属学校をむしろエリート養成機関として積極活用すべきである、という論陣を張っているようだ。ある程度バックグラウンドの知識がある人にはこれが正論であることがわかる。しかしエリートに搾取されているという被害妄想を持った人々にエリート教育のリターンを解くことはおそらくムダであろう。そこで本稿では他のOBとは違う視点から議論を展開しようと思う。

  • 他のOBの論陣は2つの意見が混合していることが多い。1つ目は日本の国力没落をエリート教育の不足に求めるものであり、2つ目の主張は国立附属学校は別に受験エリートの養成などしていないというものである。
  • 1つ目について。顕著に没落した日本の基礎研究成果や、スタートアップの成功度合いでもイスラエルや米国になかなか追いつけない日本の現状を彼らは危惧している。
    • 基礎研究の没落については、投資に対するアウトプットの比率で見ると日本は意外と悪くない(それでもイギリスやフランスの方が優れているが)
    • 後段の拙論と関係するが、ビル・ゲイツのような偉大な起業家は別に教育されたから出来上がった訳ではないことを考慮すると、エリート教育なるものが本当に必要かも実は怪しい。しかしエリートの卵を単に集めて濃縮するだけの介入には意味がある。これも後述する。
  • 2つ目については、それがTrueであることを著者自身の体験によって知っているので後述する。しかし自らがそれを体験しておらずしかも自分の人生に満足していない人というのは、被害妄想による疑念をやめようとはしないものだ。そこで以下では、教えないにことにこそ真髄があるというその実態を体験談として書いてみた。外野の人にももう少しリアリティが伝われば幸いだ。

存在しないリスク回避手段を求める人々

抽選推進を持ち出している人々は教育委員会のポスト保持者と一部の大学教授のようである。彼らの考えを総括すると、以下のように考えているように見受けられる 著者の誤認も含まれているだろうが、まずは本稿を一通り読んでから評価を下してくだされば幸いである。

  • 国立大学附属学校では、私立学校とは違って、安価な授業料で良質な教育が受けられる
  • この良質な教育が、本来授業料の安さを必要としていない富裕層に独占提供されている
  • その理由は、難しい入試問題を突破できるのが受験塾に授業料をつぎ込める富裕層の子弟だけだからである
  • ついては、諸悪の根源である入試を抽選による選抜に変えることで、このチャンスを富裕層の特権から庶民の資産へと転換することができる

著者の人生を振り返って感じることであるが、このような考え方は公立学校の教員や公務員に特徴的である。彼らには二つの顕著な特性がある。

  1. 彼らはリスクをとにかく嫌う。自分がリスク回避的なだけならまぁ仕方ないが、社会は誰かが他人のためにリスクを取っていかないと成り立たないのだ。私たちの今の落ち着いた生活を実現するために、過去にリスクを取って犠牲になった先人に対するリスペクトだけは忘れないでいたいものだ
  2. 彼らの頭は線形なメカニズムの仮定に支配されているため、常にinterventionismにとらわれる。彼らはsecond-order effectというものを理解していない

まず指摘したいことだが、別に国立大学附属学校に入っても安泰への切符は手に入らない。むしろ自分の今後の人生に対する危機感が発生し、そして実際彼らの多くはその後の人生で否応なしにかなりの危険に晒されるようになる。

内心はとても不安定な名門学校生活と多様性

実態はこういうことである。まず難しい受験問題をくぐり抜けて選抜されて来た子供達は、ほとんどの他の子供達よりも数学や社会的教養の点で優れている。その結果、別に学校の勉強ができてもちっとも尊敬の対象にならないという強烈なピアプレッシャーが発生するのである。もしある子供がアイデンティティを学力テストのスコアの高さに求めていた場合、彼の自我はとても危険な状態に落ちる。そこで子供達は、自分と他者との違いを大きくするものは何か、どのようにして自らのユニークネスを確保することができるのか自問自答し、その試行錯誤に6年もしくは3年の時間を費やしていくことになる。著者の母校の場合は、スポーツで良い成績を納めることはかなりの賞賛対象であったし、音楽活動に勤しむものも同様である。スポーツが賞賛されるのは特待選抜されるようなスポーツエリートが著者の母校にいなかったからで、そのような不利な環境で全国大会まで行くような努力家は尊敬の対象になる。

このユニークネスの追求と独自の価値観構築は、その後の職業人生に大きな影響を与える。それはユニークな研究テーマの選択であるとか、競合他社のことなど意識せず顧客の問題に集中するビジネス上の姿勢といったものだ。彼らは、逆風が多かろうと、他社の真似ばかりしている人々の対極に座ろうとする。他人と違っていることはとても良いことだという、多様性への賞賛を国立学校や多くの私立学校は育んでいる訳である。著者は市立の公立学校にも通ったからはっきりわかるのだが、多くの学校教員や教育委員会の監督者は、poorで独善的な教条を子供達に押し付けている日々について猛省して欲しい。なぜこのような共産主義シンパのまがい物みたいな人々が日本の教育機関にたくさん生まれたのかは著者にはよくわからない。歴史をさらに調べる必要があるだろう。ただ言えることは、英国や米国・カナダのような移民社会では当たり前のように是とされておりかつそれが経済的にペイしている価値観が、残念ながら公立学校でそれを伝えられていない日本においては、国立学校と私立学校が多様性確保に一役買っている訳である。

生徒には実はハイリスク・ハイリターン

さて、思春期に培われた独自人生への探求心だが、これは大人になってもずっとついて回る。自分の人生が平凡であることが恐ろしくなってくるのだ。そして彼らの多くがハイリスクな意思決定を行うようになる。最近10年ぶりに再会した親友を例にとると、彼はNGOの仕事でアフガニスタンにも行っているし、ワシントンD.C.滞在中には後頭部に銃を突きつけられてその時の貴重品を全て盗られた。その際に彼が強盗から英語で言われた言葉は次の通りだ。「顔を見たら殺す」これを正確に聞き取れずに、「えっなに?」などと言って振り返ったらあなたはもうこの世にいない。

要は名門学校に入ることは、ハイリスク・ハイリターンの投資をすることなのだ。もちろん名門学校に入ったあとでも、大学進学くらいの時点で諦めれば、極めて平凡な人生を送ることも不可能ではない。しかし思春期に培われたその価値観を捨て去ることは、自分をどこかで信じている子供達には難しい。結局のところ、名門学校への入学はハイリスク・ハイリターンの株式にほぼ全財産突っ込むようなものなのだ。一応はput optionもあるとは言えるものの。

先ほどの強盗にあった彼は今では欧州で息子を育てている。実はさらに驚きのstruggleがもう一つあるのだが彼のプライバシーを考慮しここでは書かない。彼のハイリスクな人生は、名門校通学をリスクフリーのフリーランチとして考え、抽選制でばらまいてポピュリスト的人気を取ろうとするような人々の人生観とはどう考えても対極にある。

役所の人々の人生はリスクレス・ミドルリターンと言えるだろう。著者が所属するヘッジファンドの世界では、リスクを取らずに追加で期待値が高められるような戦略にはalphaが存在する、という言い方をする。Alphaが存在すること自体は悪いことではないが、それは個人の並々ならぬ努力と忍耐の対価によって手に入れるものであって、努力をしない一部の人にただで配ってはならないのである(選択的にただでばらまくと市民社会の相互信頼を傷つける)。実際、Alphaの取得の難しさは経済学で言う所の効率市場仮説と関係しており、それは市場の公平性を一定量担保している。

もしAlphaが何の追加の痛みも伴わずに容易に、しかも一部の人にだけ与えられている場合、それは特権と呼ばれる。リスクレスでハイタリーンが手に入る特権が放置されている状況は社会的不公正である。雇用を公的に保護されている人たちは、純粋な親切心から、その特権を他の人にもちょっと分け与えてあげようと思ったのかもしれないが、そういう特権の存在が放置されること自体が、公正の観点から問題があるのだ。

名門校に入ることは少しくらいは期待値を高めるかもしれないが、大きなボラティリティを伴うため、これはAlphaを取っている訳ではなくてBetaを高めているだけだ。ハイリスク株式が万人に進めるべき資産クラスではないように、名門学校への通学も別に万人に勧めるべきものではないわけである。多くの名門学校は入学試験を課しているが、その後の人生の波乱に比べたら入学試験などというものはとても小さな試練である。その程度の小さな試練突破に対するcommitmentができない子供達を無理に名門学校に入学させるとむしろ人生に暗い影を落とすであろう。

今となってはオックスフォードにゆかりのできた著者としては、ここでノブレス・オブリージュについても言及しておきたい。第二次世界対戦時、オックスフォード大学やケンブリッジ大学に通っていた貴族の師弟は真っ先に戦死した。戦死したからといって貴族の特権が正当化されてはならないのだが、少なくともこちらのエリートはハイリスク・ハイリターンの人生を送っていたということだ。そのハイリスクには株式投資ロスのような金銭損失だけではなく、命の損失も場合によっては含まれているのである。

社会全体へは: 低コストでハイリターンのバフェット流投資

さて、ハイリスク株式を若くして取得した子供達が将来社会に何を残してくれるか考えてみよう。ここで重要になるのは国立大学附属学校が何をしているかである。著者の記憶を披露させていただくと以下のような感じだ。

  • ともかく異様にポテンシャルの高い同級生だけは集まった。なまじ頭がいいので、誰も他人の命令なんか聞かない。公立学校で行われているような、道徳的正当化からの説得は彼らには無意味である。どうやって何か新しいことを協業しようか?
  • 机はボロい。ファシリティは老朽化して汚い。校舎の保全は県立高校の方がマシなのではないか? 箱物公共工事建設業者泣かせであろう。国からの我が校に対する投資金額の低さだけは他校の生徒に自慢できそうだな
  • 母が保護者向けのガイダンスに出席してきたが、たった一本の鉛筆を持ち帰らないように教官から強くお願いされたそうである。数が極めて限定されているため、それがないと業務が滞ってしまうらしい 鉛筆一本だって?
  • 教官たちは、教養は確かにあるのだが、生徒の意向も意に介することなく勝手な雑学講義をdeepに進めているように見える
  • 生徒たちは、他の生徒の奇抜な行動には気が気でないようだが、教官に対する関心はてんで薄いようである。この人たちが何を「教えて」くれるというのか?

最近は文科省のスーパーサイエンスハイスクール(SSH)といったシステムも導入されているので以前より少し介入的な投資もしているだろう。しかし、国の「エリート養成機関」とやらの実態は、優秀な子供を集めて単に一箇所に放り込んだだけだった。しかしこの生徒たちが将来、社会的には大きなリターンを生んでいることは日銀の黒田総裁 (著者の高校の先輩である)がもたらした日本経済の変化や、後輩たちの起業成果を見ての通りである。生徒個人個人にはハイリスク・ハイリターンの人生でも、生徒を集めた集合体で見ると低コストでハイリターンの理想的ポートフォリオになっていたのだ。Warren Buffettに言わせれば、資本がかからず無限に利益を生み出すような企業の所有が理想の投資である。コストをかけなくてもハイリターンが出ているのに、なんでお役所の人たちはわざわざコストを増やしてROIを低くしようとしていたのだろう?

人材濃度の希釈化に対する脆弱性

この理想的な社会投資はしかし常にワークする訳ではない。この投資機会のeconomic moatはとても小さく、役人の変な介入によって容易に消滅してしまう危機に瀕しているのだ。

子供達をハイリスクな冒険へと駆り立てるものが、「座学勉強ができても賞賛されない」ことだった点を思い出して欲しい。もしここに抽選で、相対的に学力の不足している子供が放り込まれると以下のような事態が起きるであろう。

  • 元来の学力の高かった生徒たちは、座学勉強ができるだけで抽選組に対する優位性を確保してしまう。その結果、今まで保持されていたリスクテイクへのインセンティブが失われる
  • 高いcommitmentを示す前に大人の都合で抽選で入れられた子供たちの将来は全く不確実である。極端に言えば、このハイリスク・ピアプレッシャーで自我崩壊したりしないか?

このように双方の集団にとって、そして子供達への投資からリターンを得ようとしている我々市民全体にとってもおそらくはリターンを低める結果にしかならないであろう。そもそも日本では義務教育が保証されているのであって、他の子供達も普通に都立/県立高校へ進学できるのだ。それを差し置いてわざわざ国立学校を設ける正当化には、この国立学校が他の公立学校と違っていることという条件が必須である。

単に違ってさえいれば良いという視点からは、今の国立学校のバラエティが不十分である、という主張ならば一定の説得力があるだろう。学力の高さだけでかき集めた国立学校があるなら、芸術センスの高さだけでかき集めた国立学校があっても良い。これなら主張として成り立つ。その場合、芸術センスの高さで集めた生徒たちに対して芸術の講義はしない、という政策が要求される。この観点からすると、私立学校の一部で行われているスポーツ特待生にスポーツエリート教育をするというシステムは介入主義の幻想から抜けていない、と言えるだろう。スポーツエリートを集めるなら、スポーツができるということが何の自慢にもならない、という危機感を生徒に抱かせることが社会的投資の秘訣なのである。

介入/設計主義の不毛

最後に、なぜこのような議論が出てくるのか、日本のみならず世界中の公的機関に意識的 or 無意識的に内在する介入主義へのバイアス傾向について論じたい。中学時代、著者を耐えず不快にさせていた教員たちは、子供をスイッチのついたパネルか何かと勘違いしているようだった。例えるとこういうことだ。

  • 生徒には英語、数学、国語といったボタンがついている
  • 教師がそのボタンを押す(授業を通してやり方を教える)。子供は対応するボタンの機能を習得する

こんな現象は現実には存在しない。教師が英語指導をXポイント追加すると、子供は英語能力が0.3Xポイント向上する、というような線形システムが頭の中に埋め込まれている人々は、常に介入を正当化する。子供の英語力が足りない? じゃあ英語の授業をもっと増やそう。子供が非行に走る? じゃあもっと道徳の授業を増やそう。日本の大学しか卒業していない著者はオックスフォード大学のそばに置かせていただいているだけだが、著者がオックスフォードの入試問題を見た限り、こんな単純な線形社会システムを頭に描くような人物はオックスフォードの入学試験には絶対に合格しないと言える。

線形システムが頭にある人の特徴は物事を足し算していって複雑化させる点だ。本日、いったい教師の独善のためにどれだけの無駄な授業と説教が行われているのであろうか? 過去には、才能ある子供たちのポテンシャルをどれだけ潰してきたのであろうか?

一方、国立大学附属学校の低予算システムは、意図されたものだったかはわからないが、少なくとも引き算が有効に働いている。これらの学校では介入をせずただ放置しただけだった。才能ある人たちを集めて、その才能を自己否定させるような場所を提供するという、逆説的アプローチによって人材輩出に成功してきた。数学を教えたら数学ができるようになった、というような介入主義的発想はfirst-order effectばかり見ているが、否定によってリターンを得るこのアプローチはsecond-order effectを利用しているのである。

Second-order effectについて補足して本稿を終えることとしよう。ホメオパシー(代替医療)の効用について考えたことがあるだろうか? これはレメディと呼ばれる謎の物質を、その物質が1原子も含まれない濃度に水で希釈して投与するというものである。

まず伝えることとして、過去の膨大な実験によって、ホメオパシーには医学的な効能が全くないことがほぼ確実である。ここでnaiveな介入主義者は、「非科学的なホメオパシーをやめさせるべきだ」などという。もちろん、正当な治療方法が判明している病気に対してホメオパシーを施すのはよくない。しかし、その治療方法が不明かもしくは既存の方法が有害だったら?

ここで覚えて欲しいのが、ホメオパシーが有害であるという仮説も十分に棄却されているという事実である。つまりホメオパシーは人体にプラスもマイナスも何も及ぼさないのだ。

この結果、有害な過剰医療の代わりにホメオパシーを施された患者は長期的には自らの自己治癒能力で回復していく。ホメオパシーは、有害な医療行為から患者を遠ざけさせることで結果的に患者を回復させるのである。first-order effectの医療しか考えられない医師は肯定的材料だけを探して過剰医療をするが、ゼロがマイナスよりはマシであるというホメオパシーの結果に着目した医療行為はsecond-order effectを利用していると言える。

Second-order effectの効用は他にも色々ある。医療技術が未熟だった過去にはお祈りばかりしている宗教の多くがその役割を果たしたし、今でもある種の呪術行為はアフリカでインチキ医療行為やあるいはもっと過激派の宗教から患者や信者を遠ざけるのに役立っている。

介入行為の不毛に関する指摘はハイエクやポパー以来のオーストリアの伝統である。少なくとも民主主義国家をまだ自認している日本においても、彼ら偉大な哲学者に習ってみたらどうだろうか。国立大学附属校ではsecond-order effectを利用した「何もしない」「否定の」教育をもう少し続けてみるということだ。最安の設備投資で最良のリターンが待っているのだから。

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